沢渡の魅力
隠れた名湯
縄文時代から湧き出る天然温泉
縄文文化が栄えた頃から湯の沸く場所、沢渡。
その自然に囲まれた土地は、人にとって暮らしやすい場所だったのでしょう。歴史に名高い、源氏木曾義仲、源頼朝も、この沢渡の出湯で疲れを癒したと伝えられています。
以後、武士のみでなく、高野長英(蘭学者)、福田宗禎(医者)、若山牧水(文学者・歌人)ら多くの文人墨客にも愛されてきました。
沢渡温泉ゆかりの人物
源 頼朝(1147~1199)
<源頼朝が広めた草津の治し湯>
源頼朝は建久2年、浅間山麓で小手調べの射狩をし、その帰途草津温泉に立ち寄ったが強酸性の湯に肌を痛めた。その後沢渡の湯に浸かりその荒れた肌があまりにきれいになったことから、草津の治し湯として知られることになったといわれている。
若山牧水(1885~1928)
<若山牧水が愛した暮坂峠>
早稲田大学に、同窓であり文学の仲間として親交のあった佐藤緑葉(吾妻郡東村)、田中辰雄(中之条町)を訪ね、上州へは8回に渡り旅をしており、その内、吾妻へは3回訪れている。
3回目となった旅は、大正11年の信州から草津、暮坂峠を経て利根郡より日光へ向かう旅であり、この紀行文は、「みなかみ紀行」として大正13年に刊行された。
この旅の前半の山場として、花敷から暮坂峠を経て沢渡に至る場面が記されており、その時期に刊行されている著書「山櫻の歌」にも、この旅で詠んだ歌が数多く発表されている。
暮坂峠では、歌人 牧水としては数少ない詩の1つ、「枯野の旅」を残している。
昭和32年には、牧水を敬愛する人々によって、この詩を刻んだ詩碑がたてられて、暮坂峠のシンボルとなっている。
高野長英(1804~1850)
<高野長英がより所とした沢渡>
江戸時代後期の蘭学者。現在の岩手県水沢市の出生。
苦学をしながら蘭医 杉田伯元に学び、ついで吉田長淑の内弟子となる。
文政8年(1825)、長崎に赴き、シーボルトの鳴滝塾に入塾。鯨の生態を研究し、師より”ドクトル”の称号を与えられた。
天保2年(1831)、漢方医学に行き詰まりを感じた福田宗禎を中心とする吾妻の医師達が、西洋医学を取り入れる為、師として長英を吾妻郡沢渡に招きいれた。
その後、天保7年には再び沢渡へ来遊したことが宗禎の日記に記されている。
こうして吾妻の蘭学は沢渡温泉に起こり、高橋景作、柳田禎蔵などの門下生を輩出した。
その後、長英は「夢物語」の筆禍によって投獄され(蛮社の獄)、5年後に脱獄逃亡したとして全国に指名手配された。
この際、吾妻の門人たちの多くが恩師である長英をかくまったと伝えられている。
このことから吾妻の名所に長英にまつわるエピソードが数多く残され、蛇野川に架かる晩釣橋という名称は、釣り好きの長英が夜になって、そっと魚釣りを楽しんだことからその名前がつけられたと言われている。
沢渡温泉の効能
湯は、50年以前の雨水が地中深く浸透し、40年以上の長期間流動しながら有効成分を取り込み、熱水化して
55℃以上の温泉となって噴出しています。
(京都大学 北岡教授のトリチウム濃度測定 結果報告より)
●泉温・・・55℃
電気伝導率・・・170(mS/m)※水道水は10(mS/m)
●泉質・・・ カルシウム・ナトリウム一硫酸塩・塩化物温泉
<効能>
切り傷・やけど・神経痛・リュウマチ・運動麻痺・慢性消化器病・痔・冷え性・糖尿病・婦人病・
病後回復期・水虫 等
共同浴場
一浴玉の肌
湯治で草津を訪れ、その強酸性の湯に肌を痛めた湯治客が、沢渡の湯でその肌を癒したとされ”草津の治し湯・仕上げ湯”とも言われています。ここからも特に皮膚によい”美肌の湯”だということが裏付けられます。
今も、この泉質を知る人は、遠方からわざわざこの湯に浸かりに来ると言います。
治療に温泉を利用した沢渡温泉病院もあり、泉質の良さはお墨付きです。
温泉の入り方
一、あがる時、湯を洗い流さない。
一、熱過ぎる湯に入らない。
一、入浴はリラックスしてのんびりと。
一、飲酒後の入浴は×。
一、飲泉は新鮮なものをゆっくりと飲みましょう。
氏曰く、「極上の泉質、ベスト5に入る」「軀を湯のなかに分解してしまうようななめらかさがある。ダラーッとなる。色っぽい妖しい湯だ。」と、評されています。
嵐山光三郎先生流の共同浴場での入り方は、まず、熱い方の浴槽に1分間入る。出て、体を冷ます。
また、1分間入る。これを繰り返すと、体の芯から温まり、疲れがとれるそうです。
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